3週間にわたる遺骨収集ボランティアを終えると、本土へ帰還前に現地・硫黄島天山「硫黄島戦没者の碑」にて現地追悼式が行われます。追悼式には遺骨収集ボランティア団、海上自衛隊(司令)、航空自衛隊幹部(司令)、鹿島建設代表、小笠原村役場職員他、多くの自衛隊員が参列されます。自衛隊員の方々は本当に決まりよく、夏の暑い日差しにもかかわらず整列して式に参加しておられました。
※ここらの写真は撮影厳禁であるためありません。またお気づきと思いますが遺骨収集現場の写真も撮影厳禁でした。後日戦没者遺骨収集推進協会から写真データをいただきましたが、SNSアップは厳禁でした。ご遺骨に対する敬意の気持ちであるからです。
献花に使われる花は小笠原村から捧げられたものだそうです。よく墓前に供えられる菊の花は硫黄島にありません。ちなみに天山周辺に植えられていた植物は、夏の乾燥に強いキョウチクトウでした。(木の大きさが1メートルあるかないかだったので苗木を植えたものだと思われる)
あとはいたるところに銀ネムが芽を出していました。
花と言えば、宿舎にご遺骨が安置されていたとき、お供えの花がないかということで、花を探しに行ったことがあります。花は自衛隊施設周辺にたくさんのハイビスカスが植えられていたので、それをあるボランティアの方が有難く切って持って帰りました。(悪く言えば無断で切った)
追悼式を終えるとその日は帰還準備をします。荷物をまとめ、遺骨収集で使っていた道具を洗い、倉庫へ仕舞います。宿舎の清掃もあります。みんなで行うので早めに終わります。このときにサンカクサボテンの枝を切ったものが捨てられており、捨てた方がいらないといわれたので有難くいただきました。(ドラゴンフルーツに似ていますが種類はわからず)
私も帰還前に硫黄島で収集した植物の苗(挿し木できるか試そうと思った)を持ち帰るべく準備をしました。本土へ持ち帰ってはいけないものかどうか事前に調べています。

これらがどうなったかは後日投稿するとしてボランティア記の続きです。
翌日は荷物を自衛隊の方々が取りに来られるので宿舎玄関前にみんながだしました。みなさん帰還前に自衛隊の売店からお土産を(信じられないでしょうがお土産があるのです。土産用の菓子や硫黄島や自衛隊をあしらったTシャツ、タオルやらいろいろ……。わたしはTシャツを買いました)たくさん買ったのでしょうか、来た時よりも荷物が増えている気がしました。
鹿島建設食堂で最後の硫黄島での昼食をとると、いよいよ輸送機搭乗です。ちなみに航空チケットはありません。その代わりにネックレスのようなものを首から下げておきます。(確認票かな。これは後で回収されます)
輸送機に乗ると白い布でくるまれたご遺骨が入った箱を抱き(本土のホテルへもどるまで)在島隊員の皆さんの見送りを受け、輸送機へ搭乗します。
雨がほとんど降らないまま取水制限となった硫黄島でしたが、私たちが帰還するときには台風が接近しつつありました。もし帰還が遅れたら影響を受けていたかもしれません。
輸送機の小さな窓から垣間見た硫黄島。皆、名残惜しそうに眺めていました。
航空自衛隊入間基地へ到着して輸送機から降りるとき、なんと捧げ銃の礼を受けました。もちろんこの礼は英霊であるご遺骨に対してのものですが私は緊張してしまいました。
以下、航空自衛隊入間基地のX(旧Twitter)過去記事に写真がありましたので紹介します。(今回の遺骨収集のときのものではありません)



ちなみに法律で拝礼の根拠が決められております。
http://www.clearing.mod.go.jp/kunrei_data/a_fd/1964/ax19640508_00014_000.pdf
バスに乗って入間基地を出るのですが、なんと広い基地をバスが出るまでその場に居合わせた隊員たちは皆揃って敬礼をしていました。バスが見えなくなるまで本当に丁寧に……。
その後KKRホテルに到着するとご遺骨を安置所へ置き翌日の引き渡し式のリハーサルをしました。
ご遺骨を棒持(ほうじ:敬意をもって持つ)するため、鞄等を持てません。制服のポケットにスマホを入れるぐらいでした。
その夜はボランティア仲間と一緒に夜の街へ食事に出かけました。一足先に一人でホテルへ帰るべく後にした私が迷子になって最後にはタクシーで帰ったことはいうまでもありません。
続きはまた後日。